2018.03.11
少なからず関東でもパニックに陥った7年前の3月11日。
日を追うごとに東北の惨状が明らかになり、着付け師、着付け講師という私の仕事は、こんな時には世の中の何の役にも立たないのだ、と痛感させられる日々。
そんな時、ニュースに写った1つの光景。
瓦礫の中から出てきた泥だらけのアルバムを手に「あった!」と喜ぶ被災者。
そうだ、多くの被災者は、物だけではなく思い出も流されてしまったんだ…
たとえ泥だらけでも破けてしまっていても、思い出を守り戻せたこの方は、さぞ嬉しいだろう。
流されてしまったアルバムを取り戻して差し上げる事は出来ないけれど、新たな思い出作りのお手伝いをする事は、私にもできるのではないか?
ふと、そう思いました。
そのボンヤリとした思いは日ごとに深まり、私の中で具体的になっていきました。
七五三や成人式、夫婦や家族の記念日などに着物姿の写真を残していた方もきっと多いはず。
無くしてしまったその記念写真を撮りなおして差し上げたい。そしてそれをアルバムの最初のページに貼ってプレゼントしたい。「2ページ目からも、笑顔の写真で埋め尽くせるように頑張ろう!」と思っていただけるように。
そして、知り合いのヘアメイク、フォトグラファーに呼びかけ、SNSなどやった事のなかった私がミクシィに登録して見ず知らずのヘアメイクさんなどに協力を仰ぎ、何とかスタッフは集まりました。
次に必要なのは衣装。
ひと家族が撮影している間に次の家族の支度をしないといけないので、ウチの着物だけでは到底足りません。
書いた事のない企画書を、ど素人感満載で書き、着物レンタル屋さん巡りをしました。
「このプロジェクトのために衣装をタダで貸して欲しい」と。
私は、タダである事にこだわりました。お金を支払えば、どこのレンタル屋さんでも貸してくれます。そうではなく、このプロジェクトに賛同し、このプロジェクトのために一肌脱ぎたい、という業者さんに参加して欲しかったのです。
そして、写真出力の無料協力をしてくれるフォトスタジオを探し、アルバムを無料提供してくれる業者を探しました。
写真出力は見つかったのですが、アルバム提供会社は見つかりません。どこの会社も「趣旨には賛同しますが、会社として、高橋さんに協力してしまうと、同じような申し出をした人全員に協力しなければいけなくなる」
そんな中で、撮影会当日を迎えました。
アルバムはありません。これはもう、私が買うしかない、そう思っていたところ、前日にアルバム提供のお願いをしたけれど担当者が不在だった会社の、担当者から電話がありました。
…が、回答は同じ…
私は「おっしゃる通りです。が、実は今、撮影会をしています。早急にアルバムが必要なんです。格安でアルバムを売ってください。明日、御社に伺います」
で、翌日、ご担当者を訪ねて行きました。
そしたら…
「高橋さんの熱意に負けました。上司に掛け合い、社長の許可をもらったので50冊差し上げます。ただし、1つ条件があります。当社の名前は一切口外しないでください」
私は少し困りました。
というのは、アルバムを被災者に届けるのと同じくらい私がこだわったのは、アルバムと一緒に「応援メッセージ」も届ける、ということだったのです。
このプロジェクトに関わった全ての人から、被災者へのエールメッセージをいただき、それをまとめ「応援メッセージ」としてアルバムに添えたかったのです。
でも、もちろん、この心意気のある会社の条件を飲んで、ありがたくアルバムをいただきました。応援メッセージには、この会社だけ無しにして。
そんな風にして、「高橋美登里礼法きもの学院ボランティアチーム」として、相模原、川崎、町田、八王子市の社会福祉協議会様のご協力を得て、この活動を続けました。
3年が経ち、もう、私達の活動は区切りをつけてよい時期ではないか、との判断で終了しました。
そして2年前。
東日本大震災から5年目の年。
熊本で大きな地震がありました。この時も、日本中が熊本に温かい手を差し伸べました。
この時、私は、5年目を迎え、風化しはじめた東日本大震災の被災者の方々に思いを馳せました。
「忘れてないよ」ということを伝えたい。
一度解散したボランティアチームを再結成し「5年目の笑顔を浴衣姿で」と題して浴衣撮影会をしました。
7年目の今年、あの震災を忘れないために、今、これを書いています。
たった一度、撮影会の日にお会いしただけのご夫婦から、毎年年賀状をいただきます。
私達が、ほんの少しでもお役に立てたと思わせてくれます。
「何かして差し上げたい」そんな気持ちで始まった活動は、実は、私達が与えた以上の豊かさを、被災者の皆さんからいただいています。
一日も早い復興を願います。
※私達の活動の記録はこちらです。
ご覧いただけましたら幸いです。