2015.11.30
11月28日深夜、偶然見つけてしまったのです。
中野区立歴史民族資料館で「婚礼~めでたいお祝い~」と題する秋の企画展が行なわれている事を。しかも翌日の29日が最終日! もう、行くしかないでしょ。
この企画展は、大正から昭和初期頃に、実際に中野で行なわれていた庶民の婚礼の様子を紹介するもの。婚礼は、今では季節を問わず神社や教会などで行なわれますが、当時は、農繁期を終えた秋に家庭で行なわれていました。家庭で行なうので、箪笥などをご近所さんに預かってもらって宴のスペースを確保する事もあったのだとか。そして夕方から夜を徹して行ないました。ちなみに「結婚」の「婚」の字は「女」偏に「昏(たそがれ)」と書きますが、婚礼が夕方から行なわれるからだそうですよ。
家庭で行なうという事は、人前結婚式ですね。それだけで、もう現代と随分違いますね~。
明治以前の結婚の形態は、大きく分けて3つ。
嫁入り婚…男性方で式をあげて、男性の家で暮らす。
婿入り婚…女性のもとへ男性が通う「妻問婚」で夫婦関係を続け、女性方で式をあげる。子供の誕生をきっかけに男性方に移る。源氏物語などでも描かれていますね。これ、1960年まで石川県の一部の村で行なわれていたんですって。
足入れ婚…男性方で祝言をあげ(あしいれ)、その後女性は生家に戻り男性が通う「妻問婚」に。一定期間ののち、女性が男性の家に入る。これも1970年くらいまでは伊豆諸島で行なわれていたんですって。
明治時代以降、中野で最も一般的だったのが「嫁入り婚」。これは江戸時代の武家階級で行なわれていたものが、庶民にも浸透したようです。また、仲人が両家を行き来して結納品をとりかわす「結納」という儀式も江戸時代には庶民にも定着していたようです。
いずれにしろ、当時は狭い村の中での縁組みでしたので、このような結婚の形態や結納の取り交わしができたのでしょうね。
↓明治初期の結婚の様子。
右上…花嫁衣装のお袖、短いですね、小振袖くらい。きものも裾だけに模様がついています。結婚してお袖を少し詰めれば黒留袖になります。
左上…花嫁道具、すっごい量。ちゃぶ台、枕、たらいや洗濯板も。
左下…花嫁行列が新郎宅に到着。夕方ですね〜。
↓昭和7年の女性誌も興味深い。
・左から3つは本振袖。右のみ打掛。
・左側の花嫁さん、抱え帯ではなくしごきを締めてますね。
・左から2つ目の花嫁さんはお引きずりにはしないで洋髪。モダンですね。
・右の打掛スタイル。実は私、常々疑問だったのですが、現代の打掛スタイルの場合、打掛の前合わせの格好を良く見せるためにコーリンベルトを使うんです。コーリンベルトがなかった時代はどうしてたのかな?と。この写真を見れば一目瞭然、打掛の前は合わせないで、時代劇のお姫様などのように開けたままなのね。
↓当時の留袖。
着てしまえば見えなくなる下前にもしっかり柄が描かれていて豪華!
花嫁衣装。
昭和30年ぐらいまでは、黒本振袖が一般的でした。下には白と赤を着て三枚重ねにします。
あなた色に染めてください、と白を着て、染まったからにはもう何色にも染まらない、と黒を、でも胸の内はあなたを思ってこんなに赤く燃えています…な〜んて。
↓豪華花嫁衣装には、それに負けない重厚な帯を。
丸帯です。通常の帯の倍の幅で織り、それを二つに折って仕立てるので、つまり両表の贅沢な帯。当然の事ながら、展示されてる帯には使用した時についた折れ線があり、「この方は、幸せな結婚生活を送られたかしら?」と見知らぬ女性に思いを馳せ。
母が結婚の時に締めた丸帯、重い重い。でも素敵な柄で、ど〜〜〜しても締めたかったので、半分に切って裏地をつけ、袋帯に仕立て替えて締めています。
その他、結納やかんざし、三三九度、祝い料理などについての展示もありましたが、書ききれないのでこの辺で。